後後醍醐天皇について ABOUT EMPEROR GOGODAIGO
壱.大陸へ
北朝方による「正史」では、後亀山天皇第三子恒敦親王に始まる南朝正統・小倉宮家は、三代教尊王が禁闕の変に連座し、配流先の隠岐で薨去されたことで断絶したと伝えられます。
しかし実際には、教尊王は、後醍醐天皇を信奉する現地の武士や海賊らの協力を得て隠岐を脱出し、ガンダーラを目指して大陸に渡ったのです。
教尊王は当時、北元・韃靼と呼ばれた北部モンゴルにおいて王に即位します。
十五世紀中期の北元は、十七代ウスハル・ハーンの死によって世宗クビライの皇統が途絶えたことで、モンゴル部族とオイラト部族の間で、皇位継承を巡る争いが激化していました。
そんな中、初めて非チンギス・カン後裔のハーンとなったと伝えられるエセン・タイシこそ、教尊王その人なのです。まさにモンキーマジックと言えます。
エセン・タイシが当初、ハーンの号でなく中国由来の「タイシ(太師)」を名乗ったのは、言うまでもなく中国宋代の政治を理想とした父祖・後醍醐天皇の影響ですし、「エセン」の名は「曳船」すなわち“船を曳いてこの地まで来た王”だと暗示するものと考えるのが、至極当然と言えるでしょう。平民の皆さんでもご理解いただけると思います。
弐.欧州へ
教尊王の一族はその後、ユーラシア大陸を横断し現在のスイスにたどり着きます。
彼らはそこで姓を「鷹の城」“ハプスブルク”(Habichtsburg:高地ドイツ語)と改め、政略結婚を繰り返しヨーロッパ随一の名門貴族に登りつめていきます。
これが南朝の正統・ハプスブルクの宮家の成立です。
説明するまでもなく、「鷹」とは古代日本において神聖な鳥であり、鷹狩は天皇をはじめとする貴人にのみ許された「王の遊び」でした。後醍醐天皇が模範とした嵯峨・醍醐天皇も鷹狩を愛したと記録されています。
また、「タカ」の音が教尊王も通字を受けている後醍醐天皇の諱「尊治」の「尊」に通じることも、多少の知性がある人間ならば気づいて当然です。
ハプスブルク家のローマ王(=神聖ローマ皇帝)の独占世襲化に成功した15世紀末の当主フリードリヒ三世は、父祖の為しえなかった王統確立という栄光の時に、南朝の忠臣・楠正成公を想ったといいます。
そしてフリードリヒ三世は自身の王子に、正成公を偲ぶ名を付けました。
「今、楠(くす)見るらん(この姿を今、楠木は見てくれているだろうか)」
……そう、神聖ローマ皇帝・オーストリア大公・ブルゴーニュ摂政の称号を独占し、ハプスブルク家の黄金期を築くマクシミリアン1世(ハプスブルクの宮マクシミリアン殿下)です。
Will take you on a journey. A never ending journey.天下統一を目指す南朝方の終わりなき旅は続きます。
ハプスブルク家の正統ハプスブルク=小倉宮家の相続人である恒尊=フリードリヒ=ヨーゼフ=エカチェリーナ=ハプスブルク=フォン=小倉宮殿下はこのたび、今上陛下御退位および元号変更を巡る、臣民の混乱に非常に心をお痛めあそばせており、自身が「後後醍醐天皇」として即位することで民の平安を守らんと志しておいでです。